使徒7章

7:1 大祭司は、「そのとおりなのか」と尋ねた。

 大祭司は、罪状認否の確認をしました。

7:2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、

7:3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。

 それに対して、ステパノの答えは、歴史を振り返ることでした。それは、アブラハムに対する約束から始めました。まず、信仰の人アブラハムを引き合いに出し、神の言葉に従って歩み、その祝福がイスラエルに実現したことを示したのです。

 まず、アブラハムがメソポタミアにいたとき栄光の神が彼に現れてくださったのです。彼は、自分の土地、親族を離れて、神が示す地に行くように言われました。

 彼は、歴史を振り返ることで、神様が約束通りのことを実現される方であることを示したのです。その方は、実在の神であり、その約束を実現することができる方であることを示したのです。ただ、彼は、歴史の事実を淡々と語るだけで、一切解説を入れていません。聖書の記事を示すだけで、その場で聞いている人たちは、理解できたのです。

 ただし、今日、聖書を知らない人たちに聖書の記事から神の御心を示そうとするならば、解説が必要です。それは、その記事の意味していることを正確に語るという意味での解説です。今日、聖書の記事を利用して、自分の考えを披露したり、記事にない推測などを語ることがありますが、厳に慎むべきです。

7:4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されましたが、

7:5 ここでは、足の踏み場となる土地さえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。しかし神は、まだ子がいなかった彼に対して、この地を彼とその後の子孫に所有地として与えることを約束されました。

 アブラハムは、ハランを経て、カナンの地に移されたのです。そのとき、神は、彼にわずかな土地さえも相続財産として与えませんでしたが、その地を彼とその子孫に所有地として与える約束をされたのです。

 その約束が実現されたことは、歴史の事実でした。神が、アブラハムの信仰に応えて実現したことを思い起こさせたのです。

7:6 また、神は次のように言われました。『彼の子孫は他国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。』

7:7 また、神は言われました。『彼らが奴隷として仕えるその国民を、わたしはさばく。それから彼らは出て来て、この場所でわたしに仕えるようになる。』

 また、カナンの地の相続は、他国の地で四百年間寄留者となって後のことであることも示しました。そして、その地で奴隷とし仕え、苦しめられるのです。その国民を主は裁かれることを語り、そこから出て、この場所と言われているカナンの地、彼らが今いる地で、仕えるようになると約束されたのです。エジプトを出ることは、この言葉の後、大まかに五百年後です。はるか先のことが神によって告げられ、実現したのです。

7:8 そして、神はアブラハムに割礼の契約を与えられました。こうして、アブラハムはイサクを生み、八日目にその子に割礼を施しました。それからイサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長たちを生みました。

 そして、アブラハムと割礼の契約を結びました。神の前に全き者として歩む契約です。そのしるしとして、割礼を受けるのです。アブラハムに対する祝福の実現は、神の言葉に従うことと無縁ではないのです。それを、割礼の契約として明確にしたのです。

 このことも、神の言葉に従ってこそ、祝福を相続できることの証しです。

 そのうえで、神の言葉通りに、イサクが生まれ、祝福を受け継ぐヤコブが生まれ、そして、十二人の族長たちが生まれたのです。神の約束は、確実に実現しつつありました。

7:9 族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、

7:10 あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、ファラオは彼をエジプトと王の全家を治める高官に任じました。

 族長たちは、ヨセフを妬みました。これは、不当なことです。しかし、神は、ヨセフとともにおられ、あらゆる苦難から救い出されました。

7:11 すると、エジプトとカナンの全地に飢饉が起こり、大きな苦難が襲って来たので、私たちの父祖たちは食べ物を手に入れることができなくなりました。

7:12 しかし、ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まず私たちの父祖たちを遣わしました。

7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分のことを打ち明け、ヨセフの家族のことがファラオに明らかになりました。

7:14 そこで、ヨセフは人を遣わして、自分の父ヤコブと七十五人の親族全員を呼び寄せました。

 その目的は、イスラエルとその子たちをエジプトで増やすためです。また、幕屋を建設するの必要な資材を手に入れるためです。あらかじめヨセフをエジプトに遣わし、その全てを備えたのです。

 このように、神様は、人の思いを超えて、計画を立て、実現されるかです。族長たちの悪事さえ用いられて、神様の計画を実現されるのです。このことは、イスラエル人々が拒んだイエス様が、今や、キリストとして、神の右におられ、救い主として立てられていることの比喩です。

7:15 こうして、ヤコブはエジプトに下り、そこで彼も私たちの父祖たちも死にました。

7:16 彼らはシェケムに運ばれ、かつてアブラハムがいくらかの銀でシェケムのハモルの子らから買っておいた墓に、葬られました。

→「彼らは、シェケムに運ばれ(これは、ヨセフのこと)、アブラハムが買った墓の中に(これは、ヤコブのこと)、ハモルの子らからのいくらかの銀の墓の中に置かれた。(これは、ヨセフのこと)」

 主語は、「彼ら」となっています。ヤコブとヨセフの両者が一緒に扱われています。ヤコブは、アブラハムがエフロンから買った墓に葬られ、ヨセフは、ヤコブがハモルの子らから買った墓に葬られました。

「いくらかの銀」は、属格で墓を修飾しています。「いくらかの銀の墓」です。それとともに、その墓は、関係代名詞で受けて、アブラハムが買った墓となっています。

創世記

24:32 イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。

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7:17 さて、神がアブラハムになされた約束の時が近づくにしたがい、民はエジプトで大いに数が増え、

7:18 ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こる時まで続きました。

7:19 この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。

 神は、アブラハムにイスラエルは、四百年間苦しめられると語りました。その時が近づいたのです。ヨセフを知らない王が起こされました。その王は、イスラエルを苦しめ、子を捨てさせました。

 ここでは、「同胞」という言葉を用いて、同じイスラエル民族であることを認識させました。それは、彼の信仰は、聖書からかけ離れたものではないことを示すためです。

7:20 モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、

7:21 ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。

 そのような中で生まれたモーセは、捨てられたのです。両親は、モーセが神の目に適った子であることを認めました。

 母親は、神の目に適った子なので、三か月間育てたのです。それは、父の信仰だけでなかっことが強調されています。彼らは、信仰によってそうしました。ナイル川に、水の漏れないかごに入れて流したのは、父の優れた信仰によります。神様は、後にモーセに現れた時、「あなたの父(短数)の神」と父の神と言うことをはばかりませんでした。

 そして、ファラオの娘が拾ったのも、偶然ではありませんでした。父の信仰に応えたのです。王の娘の子として、大切にされて育てられたのです。これは、アムラムたちの信仰に応えたことです。

 神は、困難な時代、迫害の中でも、信仰に応えて事をなす方であることを示したのです。イスラエル人々が偉大な人として尊敬するモーセは、父と母の深い信仰に神が応えて用いた人物であるのです。当時のユダヤ人に、果たしてそのような信仰があったでしょうか。生きている神を信じるのでなければ、できないことを彼らはしたのです。主は、それを高く評価されました。

出エジプト

2:1 さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。

2:2 彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。

2:3 しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。

6:20 アムラムは自分の叔母ヨケベデを妻にした。彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムが生きた年月は百三十七年であった。

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・「神の目に適ったかわいい」→美しい。洗練された。(ギリシア語の意味。)出エジプトの記事では、「良い」という形容詞が使われている。神の目に適っていることを表します。

7:22 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。

7:23 モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。

 モーセは、同法であるイスラエルを顧みる思いを持ちました。

7:24 そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました。

 しかし、彼が取った行動は、短絡的であり、犯罪でした。

7:25 モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 彼は、自分の手によって神がイスラエルに救いを与えると考えていました。そして、苦しみの中にいるイスラエルは喜んで受け入れてくれると考えましたが、イスラエルは理解しませんでした。

 モーセの抱いた思いは、良いものです。しかし、事は、人の願いや考えで実現するのではなく、神によることをわきまえなければなりませんでした。

 ここには、肉の思いによって行動したモーセの誤りが記されています。議会にいた民の指導者たちは、その考えが正しいものと思って行動していました。しかし、彼らは、神の正しい御心を求めようとはしいなかったのです。そのような肉による思いが正しいものではないことを示しています。

7:26 翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』

7:27 すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら言いました。『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。

7:28 昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか。』

 モーセは、自分の考えから、イスラエル人々を指導しようとしました。しかし、彼らは、モーセを指導者とは認めませんでした。彼の肉によるやり方を受け入れることはありませんでした。エジプト人を殺したように、力によって自分たちを支配しようとしていると思われたのです。

 モーセは、指導者としてもやり方が誤っていました。強権によって支配しようとするならば、人々の心は離れるのです。人々が、自らの信仰によって神に従うことこそ幸いなのです。当時の指導者たちは、肉の思いによって支配しようとしていました。

7:29 このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。

7:30 四十年たったとき、シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました。

 四十年は、訓練の期間です。

 なお、四十を試練の比喩とすることがありますが、それは、人間的観点から見ているからです。人にとって困難なことを試練と表現しますが、試練は、神の目からは、訓練の一環なのです。モーセは、四十年の間、羊飼いとして穏やかに過ごしたのです。

 そのあとで、主は、モーセに現れましたが、燃える芝の中に現れられました。芝自体が燃えるのではなく、主の栄光としての光が輝いていたのです。それは、モーセが訓練を通して学ぶべきことであったのです。自分自身の力ではなく、主が業をなすことで栄光が現されることを示すためです。

 主は、そのように人間の力で事をなすことを許されませんでした。主は、信じる者を用いて事をなさいますが、肉の力でそれをするのではないのです。

7:31 その光景を見たモーセは驚き、それをよく見ようとして近寄ったところ、主の御声が聞こえました。

7:32 『わたしは、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』モーセは震え上がり、あえて見ようとはしませんでした。

 主は、先祖の神として現れました。それは、約束を果たすためです。彼は、非常に恐れました。

 なお、ヘブル語では、この時、「あなたの父の神」と主は、言われました。それは、アムラムの信仰を際立たせるものです。しかし、ステパノは、主が父祖たちの信仰に応えて、現れたことを主題としていますので、後でもう一度ご自分を名乗られた時使った言葉を引用しています。そこでは、「あなたの父祖の神」と語っておられます。

7:33 すると、主は彼にこう言われました。『あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。

 主がモーセに求めたことは、履き物を脱ぐことです。履き物は、所有権を表しています。モーセが立っていた場所は、聖なる地であるからです。聖なる地とは、神の地であるという意味です。そこに、モーセの所有権はないからです。

 これは、シナイ山の荒野の所有権のことを問題としているのではなく、モーセを召して用いるにあたり、モーセの権利はないことを示すためです。すべては、神の権威による業であるのです。モーセがかつてしたことは、肉の思いによることです。彼の力でしたことです。しかし、神様がイスラエルをエジプトから救い出す業は、神様の権威によってなす業であり、人の何かによらないことを示されたのです。

 当時の人々は、神の主権を認めず、肉の思いによって行動していたのです。神が事をなすのは、ご自分の主権によることを示したのです。

7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見た。また彼らのうめきを聞いた。だから、彼らを救い出すために下って来たのだ。今、行け。わたしは、あなたをエジプトに遣わす。』

 主は、「わたしの」民の苦しみをずっと見ていたのです。彼らのうめきも聞き、救い出すために主は来られたのです。これから、主が業をなすことを明確に示されました。そして、モーセを遣わされたのです。

・「確かに見た」→「見る」という語が二個連なっている。初めの語は、アオリスト分詞、次の語は、アオリストです。「見たし、ずっと見ている。」

7:35 『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。

 そして、肉にはよらず、神によって立てられたモーセを神様は遣わされました。初めは、モーセは人々によって拒まれたのです。しかし、神様は、そのような人に対して、芝の中に現れた神として、絶対的な主権者として、そして、ご自分の民の苦しみを知る方として救いのために遣わされたのです。

 このことは、神が遣わされた救い主、イエス・キリストを拒んだイスラエルの姿と重なります。イスラエルによって拒まれた方を指導者また解放者として立て、遣わしておられるのです。

7:36 この人が人々を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年の間荒野で、不思議としるしを行いました。

7:37 このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。』

 このモーセに関して、モーセのような一人の預言者に言及しました。これは、イエス様のことです。それは、モーセが行ったしるしと不思議に関連付けられています。おなじように、イエス様も、しるしと不思議を行いました。その預言者にイスラエルは従ったのかが問われています。

7:38 また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。

7:39 ところが私たちの先祖たちは、彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、

7:40 アロンに言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き出した、あのモーセがどうなったのか、分からないから。』

 また、モーセは、生ける言葉を授かったのです。しかし、先祖たちはモーセに従うことを好みませんでした。そして、モーセを退け、エジプトを懐かしく思ったのです。彼らは、生ける言葉を拒んだのです。しるしと不思議を見たのに、拒んだのです。

 これは、イスラエルがいのちの言葉を語り、不思議としるしによって証しされた方を拒んだのと同じです。

7:41 彼らが子牛を造ったのはそのころで、彼らはこの偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造った物を楽しんでいました。

 彼らは、子牛を造り、偶像にいけにえを捧げ、自分たちの手で造った死んだものを楽しんでいたのです。いのちを拒んだ彼らは、いのちのないものを楽しんだのです。

7:42 そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。

7:43 あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたを、バビロンのかなたへ捕らえ移す。』

 それで、神は、彼らに背を向けられました。このように、神の遣わされたものを拒み、またいのちの言葉を拒むならば、裁きがあることを思い起こさせたのです。

 神は、彼らが天の万象に仕えるの任せられました。これは、アモス書からの引用です。荒野での偶像礼拝がここで初めて明らかにされています。それが、バビロンの彼方へ捕え移す警告につながっていますので、後の時代の偶像礼拝を含めて預言されています。

 当時のイスラエルは、捕囚の後、偶像から清められました。しかし、それと同じくらい神の前には、悪い状態となりました。それは、信仰が形式的になったことです。形式として礼拝は行われるのですが、信仰を伴わないのです。肉の現れのままに歩み、神の言葉に背いていたのです。

 彼らは、荒野にいた四十年の間、いけにえと捧げ物を主の前に携えてきたことがあったかと問われています。かれらは、形式的には、祭壇で捧げ物を捧げましたが、その心は、モレクやライパンを拝んでいたのです。そのために、バビロンのかなたに移すと言われたのです。裁きを受け、イスラエルは、歴史に彼らの不信仰を刻んだのです。

 その当時の人々も同じ不信仰の中にあるのです。神が遣わしたキリストを拒んでいるのです。しかも、後ではっきりと指摘しているように、彼らは、律法を守っていないのです。これは、彼らが裁きを受けることになる警告です。

7:44 私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。

 イスラエルの先祖のためには、荒野で証しの幕屋がありました。それは、主の命令によるものであり、示された見た通りの形に造られたものです。そこには、人の考えが入りませんでした。主は、それによってご自分の栄光を現そうとされました。人が、自分の勝手な考えで、手を加えることは許されないのです。神の言葉通りに受け入れて従うことが求められ、それを造りました。

 このことを言うのは、当時のイスラエルの信仰が神の示した言葉どおにそれを受け入れ歩むのでなく、多くの人の考えを入れ、偽善を行っていたことを踏まえてのものです。そのような信仰では、神の栄光を現すことにはならないのです。

7:45 私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。

7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。

7:47 そして、ソロモンが神のために家を建てました。

 その幕屋は、ダビデの時代まで受け継がれ、そして、ソロモンが神の家を建てました。幕屋に対比されて、家です。

7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

7:49 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。

7:50 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』

 ここで、ステパノは、神殿に関して、神がその家には、お住みになられないと言いました。「いと高き方」ということで、人間の手による家に住むような方ではないことを強調しています。それは、預言者の言葉にある通りです。むしろ、主がすべてのものを造られたのです。

 このことを指摘したのは、イスラエルの不信仰な状態を明らかにするためです。彼らは、偶像からはきよめられていましたが、神を神殿の中に閉じ込め、無力な存在としました。神の言葉を人の言葉で曲げ、偽善を行っていたのです。イエス様が指摘したように、彼らの誓いは、生ける神の前になしている誓いではなく、神殿の黄金、祭壇の上の動物、天の御座を指して誓っていましたが、それを価値あるものとする神ご自身を指して誓わないのです。神を恐れていないからです。人間的な価値観で行動していたからです。彼らは、神の存在を認めていないのです。

7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。

 彼らがうなじを強くしているというのは、そのように、神の言葉をそのまま受け入れる謙った信仰がないことです。人間の考えに従って生き、神の言葉に従う従順がないことです。彼らは、神の言葉に従うように聖霊が働いているにもかかわらず、それをいつも拒んでいました。それは、先祖の歴史に見ることが出ます。

7:52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 それは、具体的には、預言者の言葉を拒み、かえって神からの言葉語った預言者を殺したことです。そして、いま、かれらは、預言者がやがて来ると語っていた正しい人を殺す者となったのです。これは、イエス様を殺したことです。

7:53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 彼らは律法を受けました。神から、御使いを通して受けたのです。しかし、彼らは、それを守りませんでした。神の言葉を守らない彼らですから、神から遣わされた方が来たとしても、信じないのです。神を恐れることがなかったのです。神がおられることを認めなかったのです。それが、イスラエル歴史であり、彼らの状態ないのです。

7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。

 人々は、はらわたが煮え返る思いで、歯ぎしりしました。非常に悔しがったのです。ステパノが語ったのは、最後の指摘以外は、聖書に書いてある記事だけです。自分たちの状態が、先祖の優れた信仰に比べ、全く不信仰であること、また、そのような先祖と一緒であることを知らされたのです。

7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、

7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。

 聖霊は、天を見つめるようにされました。そこに、幻を示したのです。そこには、父神とその右に立つイエス様を見ました。彼は、主イエス様の栄光を見させられたのです。ステパノに対する励ましのためです。

 なお、人の子が「立っている」ことについて、「右の座に着座された」ことと比較されることがあります。着座すなわち座に座ることを意味する語は、詩篇二篇の引用箇所と、それも含めヘブル人への手紙にのみ記されています。他の箇所は、神の右に着けられたという意味です。

 詩篇二篇では、敵が足台になるまで、着座しているように言われています。そこには、その時まで、休んでいる意味があります。ヘブル書では、困難の中にある信者が栄光を受け、安息を与えられる時が来ることを示して励ましていますが、イエス様は、信仰の先駆者として栄光のうちに安息を得ておられることを示しているのです。他の箇所の記述では、神の右に上げられたことは、この上ない高いくらいに着いたことを表していて、キリストが栄光のうちにおられることを表しています。着座は、キリストがどのような姿勢をしているかを表しているのではありません。キリストが栄光のうちにおられて今も働いているのに、座っていては、不都合です。ステパノがいのちを捨てて証しをしているときに、イエス様が座って休んでいては、不都合です。

ヘブル

8:1 以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、

8:2 人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。

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 右の座に着くことは、右の座に座ることです。これは、御業を完成したことを強調しています。続く節では、聖所で仕えておられると記されていて、働いておられる様子が記されています。座ったままで、仕えていることでしょうか。座ったということがイエス様の姿勢を表しているとすれば、奇妙なことです。ですから、右の座についたという表現は、姿勢の話ではなく、御業を完成して栄光を受けておられることを比喩として表現しているのです。ただし、主にとって、どのような姿勢をとっているかは、ほとんど意味のないことです。霊である父の座とは、比喩です。その右の座も比喩です。

7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。

 人々は、ステパノの証しに耳を塞ぎました。大声でその証しをかき消そうとしたのです。それが間違ったことであるならば、放っておけば良いのです。しかし、真実であったので、かき消そうとしたのです。

7:58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。

 人を死刑にするのであれば、イエス様の時のように、ローマの判決が必要です。しかし、彼らは、すぐに殺して、口を塞ぎたかったのです。その言葉をこれ以上一言も聞きたくなかったからです。その指摘が、本当のことであったからです。

7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」

7:60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

 主イエスの栄光を見たステパノは、人々のために祈ったのです。彼らがイエス様を知り、救われることが必要なのです。彼の考えていたことは、自分のことではなく、自分に石を投げている、キリストを知らない人々のことです。これが聖霊に満ちた人の姿です。自分のことを考えないのです。神の御心の実現を求めました。人々がイエス・キリストを信じ、そして、永遠の祝福を受け継ぐことこそ価値あることです。彼は、キリストの栄光を現したのです。キリストも、同じように、罪人の救いのために、命を捨てました。イエス様が心から願い考えていたことは、父なる神様が人に永遠の命を与えることが実現することです。そのためには、まず、罪の赦しが必要です。そのために十字架にかかられ、父から、罪のための裁きを受けられたのです。自ら進んで、喜んでそれを実現されました。人が神に立ち返り、罪のないものとされて、今度は、神の御心を行う者となるためです。それによって永遠の栄光がその人に与えられます。